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お墓の縁者捜索プロジェクト
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青山霊園・外人墓地について 沿革とその意義  
byケイト・ワイルドマン・ナカイ
(上智大学教授・モニュメンタ・ニポニカ編集長)

1. 青山墓地の沿革

維新直後から京都から下ってきた公家の墓所として使われ、廃仏毀釈運動の中で、神葬の場所として使われる。

明治5年(1872)に神葬墓地として指定され、その後新都の公営墓地として利用される。新政府の関係者が多く葬られる。

明治9年(1876)に東京府の管理下におかれるが、早くから都心部に墓地をおくべきかどうかについての議論が興る。

戦後にその議論が復活し、多くの墓が将来無縁になることを見込んだ上で、墓地を公園に変えることが提案される。

その案を踏まえて、昭和35年(1960)から墓所を新たに貸し付けること(無縁になった墓の再生など)を停止する。

無縁化が思われていたほど進んでいないことを認め、平成12年(2000)から管理費の滞納をテコとして、無縁化(使用許可の取り消し)や墓の任意的移動を積極的に促進させながら、平成15年(2003)に「霊園」と「公園」の共存方針を決める。

その案を実現するために墓地の大規模整備(空墓所・返還墓所の集約、大・小広場の作成、著名人の墓の名所化)を計る。

東京都公園審議会
『「区部霊園の管理について」答申 
青山霊園 〜歴史の森、時の流れが積み重なる空間〜』平成14年12月5日より

区部霊園の概要


東京都公園審議会による提言 区部霊園の将来像
〜「霊園」と「公園」の共存〜

【提 言】
区部霊園が開設以来130年の歴史の中で育んできた自然資源や歴史的な人文資源は都民共有の貴重な財産である。

都は、そうした財産を良好に保全しながら、さらに40年間で得られた空地を効果的に活用し、霊園利用者だけでなく広く都民が利用できるよう、「霊園」と「公園」が共存し、相乗的に機能を発揮する空間として再生すべきである。

(『区部霊園の管理について 答申の概要』P3)
最終答申はこちらから


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無縁墳墓整理方針

無縁墳墓の整理とは、管理料が長期間滞納されている墓所を対象に調査し、使用者が不在または不明であり、かつ承継する者が居ない場合、霊園管理者が墓所の使用許可を取消し、遺骨を改葬し、墓石等を撤去する行為である。

これは、一義的には、不適正な使用状態を是正し、行政財産の適切な運用を確保することが目的であるが、霊園再生においては、この制度を積極的に活用し、空地の拡大を進めていくべきである。

都は、平成12 年度より、管理料を10 年間以上滞納している墓所を対象として、無縁墳墓の整理を実施してきた(平成16 年度より7 年間に短縮)。特に、青山霊園においては、再生事業の開始に伴い、平成15 年度には対象とする墓所を管理料滞納7 年間に、平成16 年度にはこれを5 年間に短縮した。

谷中霊園にあっても、青山霊園と同様、積極的に無縁墳墓の整理を行い、空地の拡大を図ることが必要である。

(東京都公園審議会 『「谷中霊園再生のあり方について」 中間のまとめ』 P23)最終答申はこちらから

 

外国人墓地区の位置


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青山墓地の中の外人墓地

外国人の内地雑居、土地の自由売買が原則として認められていなかった時代に、外国人が青山墓地の中に葬られるようになった経緯ははっきりしていないが、明治13年(1880)からこういった墓が現れるようになり、1880年代の後半からかなりの数になる(おそらく政府と関係を持つお雇い外国人から始まり、それから宣教師、教員、外交官、商人等やその家族に広がる)。

その墓が一区画に集中され、今は約210基の墓がある。その殆どが1880年代から1910年代までに造られたと思われる。

 

お雇い外国人の墓のひとつ。左奥には埋葬されているブリュック氏が貢献した部門である「印刷局墓地」の文字が大きく刻まれている。

Karl Anton Bruck (カール・アントン・ブリュック)1839-1880。ドイツ人。キヨソーネの助手、銅板彫師。青山霊園外人埋葬第一号

無縁化する可能性のある外国人墓所

百年以上の年月がたった今日、親族や関係者が分からない場合が多いこともあり、外人墓地は都庁の無縁化・使用許可取り消し政策の対象として大きな打撃を受ける危険がある。

去年から68の墓所(78の墓石)の前に管理費滞納により、2005年10月を期限として使用許可取り消しを警告する立て札が建てられた。その中の「著名人」に関しては救われる可能性があるとしても、「無名人」(子供・同伴家族を含む)の墓の行く末は危ぶまれる。
青い部分が、立て看板が立てられている場所
墓石の前に立てられた看板
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こんな方々の墓石前にも看板が・・・

金玉均1851-1894
朝鮮独立党の指導者

 

Arthur Lloyd (アーサー・ロイド)1852-1911。イギリス人。慶応・東大教授、立教学院総理

朝日新聞 2005/5/20
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特に、外人墓地が大規模な空き地を提供するものとして整備方針の中心となりかねないこと、名所としてその「名」だけが残り、「実」が空洞化することを懸念する。

赤い数字のお墓(都の看板あり)は、
みなさんからの情報が必要な「無縁仏」となる可能性が強いお墓です。
青い数字のお墓(都の看板あり)は、
関係者の碑などがある(関係者がある程度明確になっている)お墓です。
緑の数字のお墓(都の看板なし)は、
管理費が払われていて問題のないと思われるお墓です。

墓地移転による空地集約のイメージ


外人墓地の意義

歴史を学ぶとき、個別現象を関連づけ、全体のコンテクストの中に位置づけることが大原則である。

背景と照らしあわせることによって、個別現象の意味することがはじめて正確に見えてくる。

 

外人墓地そのものやそこに眠る人々の生涯の歴史的意義、またそれと近代日本の歴史との関連を十分理解するために、外人墓地を人工的なモニュメントとしてではなく、生きている遺産として、なるべくその全体のコンテクストが見られる形で保存することは是非必要である。

たとえば、外人墓地にはいろんな国籍を持つ人々が眠り、その墓石にそれぞれの国風が見られる。

 

19世紀末の英国人フレイザー氏のために作られたお墓。19世紀英国に流行ったネオ(新)ゴシック様式のデザインが特徴的
墓石の壁面にあって目を引く、家紋と思われるデザイン

Hugh Fraser (ヒュー・フレイザー)1837-1894。
英国特命全権公使

19世紀末、ドイツ人の墓石にみられるネオ・クラシカル様式。ギリシア・ローマ様式を模倣したデザインで、18〜19世紀に流行し、ワイマール市などのドイツのその時代の霊園にはこの様式のお墓が多い
Gottfried Wagener (ゴットフリード・ワグネル)1831-1892。ドイツ人。東大教授、美術・工芸教育・陶磁器製造指導
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■「無名」の人の墓の裏にこそ訪ねる人の興味を引き、人間社会の普遍性を思い起こす話が潜んでいる場合も多くある。

外人墓地をなるべく本来の姿に保存し、そこに眠れる人々の尊厳を守り、訪ねる人が自然にそういう話に出会う可能性を開くことに大きな意味がある。
墓石には、生まれてから間もなくなくなったむすめに対する愛情と悲しみを表す美しい詩が刻まれている
Silvia Maria Paternostro
シルヴィア・マリア・パテルノストロ 1892/1/20-1892/2/6。イタリアから招かれた、司法省お雇い外国人アレッサンドロ・パテルノストロの娘か。

<刻まれている詩 原文>
墓碑銘
SILVIA MARIA PATERNOSTRO:
Nata il 20 Gennaio  
Morta il 6 Febbraio 1892
Era bianco il suo bel volto
come il lino che la copria
Era l'occhio al ciel rivolto
senza pianto
E parea di qualche stella
ricercar l'antica via

<日本語訳>
シルヴィア・マリア・パテルノストロ
1892年1月20日生 2月6日没

真っ白なその美しいおもざしは
体を覆うリネンのよう
空に向かったそのまなざしには
涙はなく、まるで星のよう
古の道を探す星のよう
<英訳>
Her beautiful face was white
like the linen that covered her
Her eyes were looking to the sky
without tears
And they looked like a star
searching for its old path
貿易商人と思われるイタリア人の彼の名前は、日本在住外国人名簿の中には少なくとも1871年以降横浜在住の一人としてのっている。いったいどういう経緯で彼が日本にやってきて、何を経験していたのか・・・

Vittorio Aymonin (ヴィットリオ・アイモニン) 1823-1888
イタリア人。横浜在住の貿易商人?


31歳という若さで他界したフローレンス・スクッダーの墓。宣教師の夫による"BELOVED"wife〜の墓碑に込められた想いが心にしみてくる・・・

Florence Scudder
フローレンス・スクッダー- 1875-1906
1875-1906。宣教師フランク・S・スカッダーの妻

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■日本の職人が外国の葬送習慣に加わわったことから、日本の葬送習慣へ何らかの影響を与えたものと考えられる。

その墓石を造ったのはおそらく当時の日本の職人であり、そのスタイルが近代日本の葬送習慣に少なからぬ影響を与えたと思われる。そこに近代日本の国際性の一面を伺わせる大事な機会が存在する。

当時の日本人の彫り師が、見たこともなかった複雑な形をしたローマ字を刻んだ、そのチャレンジ精神がエネルギッシュに伝わってくる。
Rev. T. A. Large B.A. (トーマス・アルフレット・ラージ) -1890。イギリス人。メソジスト教会宣教師、東洋英和学校長。賊手のため死亡
青山霊園のラージ氏墓石(左)と雑司ヶ谷霊園の外人墓石(右)に見える石工進藤氏の銘。当時、外国人の間では、進藤氏は墓石づくりに関してかなりの信頼を得ていたのかもしれない。外国人の葬送に関わることは、後の日本の葬送文化に少なからず影響を与えたことは間違いないだろう。

   
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